★裏表紙より・・・・・・
【上巻】英雄豪傑が各地に輩出し、互に覇を競い合った戦国の世、四国土佐の片田舎に野望に燃えた若者がいた。その名は長曾我部元親。わずか一郡の領主でしかなかった彼が土佐一国を制するや、近隣諸国へなだれ込んだ。四国を征服し、あわよくば京へ。が、そこでは織田信長が隆盛の時を迎えんとしていた。
【下巻】もし俺がへき地の土佐ではなく、東海の地に生まれていたならば・・・・長曾我部元親は嘆く。強勢を誇った信長が亡くなっても、素早く跡を襲った豊臣秀吉によって、営々と築き上げてきた四国に侵略の手が伸びてきた。そして、再び土佐一国に押し込められようとしている・・・・・土佐に興り、四国全土を席巻した風雲児の生涯。
長曾我部元親・・・・・情ある武略によって四国を平定・・・・ということで、元々興味をもってたところ、たまたま出張の際、空港の本屋さんでみつけました。
やっぱり、『歴史っておもしろいです!!』・・・・・・
幕末・・・自由民権運動は土佐から・・・・・・なぜ、土佐?
それは、元をたどれば、戦国乱世に長宗我家元親という一人の英雄がいたから!!
私の中で、ストンっと腹に落ちました・・・・・・・・・・・
印象に残ったフレーズを紹介させていただきます。
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◆~~勇気と同じ量の臆病さがなければ細心な智謀は湧かず敵の心理状況も察することができない。『智恵とは臆病心からくるものだ』と元親は言った~~
◆~~合戦が過ぎてみれば敵もまた友であるという考え方が島津家には伝統としてある。新納忠元にはその美徳が過剰にあったらしい。谷忠兵衛は、弥三郎(元親の長男)の死骸と対面させてもらったが、このままに運ぶことをためらい、独断ながらそれを島津家の陣中でだびに付し遺骨にして遺品の太刀などと共に貰いうけた。島津家ではさらに礼をつくし、その遺骨を守るのに使僧一人を派遣するという丁重さであった~~~
◆~~もともと四国制覇が秀吉の進出によってむなしくやぶれたことが元親をして落胆させ、世を捨てたい思いにさせたのであったがその心の傾斜が信親の死によって、いっそおおきくなったらしい。『男は夢のあるうちが花だな』~~~
◆~~関ヶ原の合戦で豊臣陣営について敗れた長宗我部軍団は、国を失った。土佐国には、掛川藩主だった山内一豊が移封されたからだ。一領具足はそれをよしとせず、何度も一揆をおこした。山内家初期の重臣野中兼山は逆らう一領具足に新田開発を命じ、やがては郷士として土佐藩で召抱えた。幕末には郷士の子孫の中から、勤王運動に挺身する者も多く出た。そして自由民権運動へとつながって行った~~
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今日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。