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2024
7/25

名曲『石狩挽歌』と浜益の歴史

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いまの北海道があるのは『ニシン・石炭・鉄道』この3つのお陰。

と言っても過言ではないと思ってます。

 

浜益の歴史は、札幌のそれよりもずっ~と古く、遠く江戸時代にさかのぼります。

 

浜益は江戸時代には『ハマシケ』と呼ばれてたそうです。

当初は『マシケ(増毛)』の一部でした。

 

安政3年(1856年) 山形県酒田から移住してきた『白鳥英作』に始まります。

翌年、浜益は江戸幕府直轄の漁場となり、自らも漁場の経営に乗り出しました。

その後、甥の白鳥浅吉が漁場の経営を引き継ぎ、さらに漁場を拡げ、

明治32年(1899年)に番屋を新築します。

これが白鳥番屋の始まりです・・・・・

この白鳥番屋が、現在の浜益郷土資料館です。

 

明治中期、浜益でも大量のニシンが獲れました!!

ニシンは、この浜益の地にも計り知れないほどの富をもたらしました!!

 

明治38年の漁獲高42000トンをピークに以後、徐々に減少していきます。

当時の浜益は、どの浜も活気に満ち溢れてました・・・・・

 

浜益郷土資料館には、当時使用されていた『漁具類一式』『ヤン衆の生活スペース』など

かつての”ニシン文化”を垣間見ることが出来ます・・・・・

 

 

もともとは小樽のニシン漁を題材とした演歌ですが、

ニシン文化を知れば知るほど・・・・

あの名曲『石狩挽歌』が胸に刺さりました・・・・

 

海猫(ゴメ)が鳴くから、ニシンが来ると

赤い筒袖(つっぽ)のヤン衆が騒ぐ

雪に埋もれた番屋の隅で

わたしゃ夜通し飯を炊く。

あれからニシンはどこへ行ったやら

破れた網は問刺し網か

今じゃ浜辺で オンボロロ

オンボロボロロー

 

沖を通るは 笠度丸

わたしゃ涙で にしん曇りの 空を見る

 

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。