いまの北海道があるのは『ニシン・石炭・鉄道』この3つのお陰。
と言っても過言ではないと思ってます。
浜益の歴史は、札幌のそれよりもずっ~と古く、遠く江戸時代にさかのぼります。
浜益は江戸時代には『ハマシケ』と呼ばれてたそうです。
当初は『マシケ(増毛)』の一部でした。
安政3年(1856年) 山形県酒田から移住してきた『白鳥英作』に始まります。
翌年、浜益は江戸幕府直轄の漁場となり、自らも漁場の経営に乗り出しました。
その後、甥の白鳥浅吉が漁場の経営を引き継ぎ、さらに漁場を拡げ、
明治32年(1899年)に番屋を新築します。
これが白鳥番屋の始まりです・・・・・
この白鳥番屋が、現在の浜益郷土資料館です。
明治中期、浜益でも大量のニシンが獲れました!!
ニシンは、この浜益の地にも計り知れないほどの富をもたらしました!!
明治38年の漁獲高42000トンをピークに以後、徐々に減少していきます。
当時の浜益は、どの浜も活気に満ち溢れてました・・・・・
浜益郷土資料館には、当時使用されていた『漁具類一式』『ヤン衆の生活スペース』など
かつての”ニシン文化”を垣間見ることが出来ます・・・・・
もともとは小樽のニシン漁を題材とした演歌ですが、
ニシン文化を知れば知るほど・・・・
あの名曲『石狩挽歌』が胸に刺さりました・・・・
海猫(ゴメ)が鳴くから、ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)のヤン衆が騒ぐ
雪に埋もれた番屋の隅で
わたしゃ夜通し飯を炊く。
あれからニシンはどこへ行ったやら
破れた網は問刺し網か
今じゃ浜辺で オンボロロ
オンボロボロロー
沖を通るは 笠度丸
わたしゃ涙で にしん曇りの 空を見る
本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。