本文より抜粋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それではどうして光秀は謀反を起こしたのだろうか。
筆者の所論は、「天下人の座を手に入れる成算が十分にあったので決行した」というも
のである。
本来であれば、謀反が成功する確率はゼロに等しかった。たとえ信長を殺害できたとし
ても、織田家最大の軍団を率いる後継者信忠の元に家臣団がすぐ集結する。光秀は与力
武将を含め約三万人を動員できたが、織田軍総懸かりの討伐を受ければひとたまりもな
かった。
したがって、謀反を成功させるのは、信長と信忠の二人を同時に殺すことが不可欠とな
る。しかし、信長は安土城、信忠は岐阜城をそれぞれ本拠としてたので、行動を共にす
る機会は非常に限られていた。
中略
以上述べてきたように、天正十年六月二日は、
①信長、信忠親子が無防備の状態で揃って京都に滞在してた
②誰からも警戒されずに京都近郊に襲撃部隊を集結できた
③柴田勝家などの重臣がいずれも遠方で活動中のため、すぐには反撃できなかった
という三条件が満たされた稀有な一日だった。
この条件のどれか一つ欠けても成功の可能性は非常に小さくなる。
そうなれば、光秀は謀反を決行しなかったであろう。
光秀はこの千載一遇の機会を逃さなかったのである。
中略
結果的に光秀の企ては、羽柴秀吉によって打ち砕かれ、一族もろとも破滅するに至っ
た。その意味において、光秀は敗者である。
ただし、そうだからと言って、謀反に踏み切った彼の判断を間違いと決めつけるべき
ではない。
光秀は、保守的で神経質という通俗的なイメージとは程遠く、人生を賭することを辞さ
ない大胆さと新時代を切り開く革新性を兼ね備えたベンチャー事業者であり、謀略に長
けた有能な軍事指揮官であった。
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筆者は、本能寺の変にまつわる、謀略説、怨恨説を真っ向から否定し、リアルに
本能寺の変の実相に迫ってます。
また、通説のイメージとは全く異なる光秀の実像にも迫ってます。
最近の日本・・・・・
勝者については美化され、敗者についてはすべてが否定される傾向が強いように思えま
す。
しかし、現実は、『完勝』だとか『完敗』というケースは少ないはずです。
5対4のスコアで勝者となったり
6対7のスコアで敗者となるのが、よくある話ではないでしょうか・・・・・・・
光秀の場合も・・・・・僅差の敗者だったんだと思えてなりません。
私は、とかく、歴史にロマンを求めたがるタイプです。
しかし、この本は、ロマンはもとより、推論、憶測など一切排除した、
リアルそのもの!!
ありがちな『~~と考えられる』という表現はせず、すべて『~~である』と断定的に記
述されてます。
『リアルな歴史の面白さ』・・・・・これを堪能させてもらいました。
本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。