平取町に ”義経神社” というお寺があります!!
子どもたちがまだ小さかった頃、家族で行ったことのあるお寺です・・・・
お寺のすぐ横に “義経資料館” があります。
先住のアイヌ民族からも
ハンカン(判官)カムイ(神様)として、親しまれた偉人義経にまつわる数々の資料が展示さ
れてます。
なぜ・・・・平取町に ”義経” ?
実は、北海道や平泉以北の東北の各地に、
その土地、その土地、ゆかりの義経伝説が数多くあります。
平取もその一つ!!
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1185年・・・・4月30日、奥州平泉。
藤原泰衡の軍勢数百が衣川館にいる義経を襲った。
義経と郎党たちは決死の抵抗をしたが、次々と倒れていった・・・・・・。
武蔵坊弁慶も死んだ。
義経は覚悟を決めた。
妻と娘を刺殺し自害した。
義経の首は黒漆塗りの箱に収められ、美酒に浸された状態で鎌倉に送られた。
鎌倉では、頼朝に変わって、和田義盛と梶原景時が首実検をし、
義経の首に相違ないことを確認した。
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“鎌倉殿の十三人”のドラマでは、どのように描かれるかは、わかりませんが、
これが、今、通説となってる『義経の最期』です。
ということで・・・・・この一冊です!!
大正13年に『成吉思汗ハ義経也』と銘打った書物が世の中を騒然とさせました。
しかし、当時、歴史学会から厳しい批判にさらされました。
時代を更にさかのぼれば、江戸時代中期に、
義経は衣川で死なず蝦夷地に脱出。義経はアイヌの神として崇められつつ、子孫はアイヌ
の棟梁となった、という生存説が当時の世間の関心を、集めてました。
その後も、
蝦夷地から北部中国に渡り、清を建国したとか、
モンゴルに渡り成吉思汗になったとか、
さまざまな生存説が生まれてきました。
このように義経生存説は、実に息の長い歴史ロマンと言えるでしょう。
“蝦夷地における義経伝承”は、今もなお、歴史学者は注目しています。
あの金田一博士ですら・・・・
“日高国(平取町)義経神社の由来”と題して正式な論文も発表されてます。
そのなかでは・・・・当時、時期を同じくして、平取の地に
移住してきた”和人”を義経と信じ込んだせい・・・・と結論付けてます。
いずれにせよ・・・・義経伝説はロマンです!!
『判官びいき』という言葉は、
まさに、時代の変革期の敗者の弁そのものの気がしてなりません。
平取町”義経神社”・・・・・・・
近々・・・バイクでまた行ってきます!!
本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。