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2022
5/13

『義経伝説と日本人』森村宗冬【平凡社新書】

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平取町に ”義経神社” というお寺があります!!

 

子どもたちがまだ小さかった頃、家族で行ったことのあるお寺です・・・・

お寺のすぐ横に “義経資料館” があります。

先住のアイヌ民族からも

ハンカン(判官)カムイ(神様)として、親しまれた偉人義経にまつわる数々の資料が展示さ

れてます。

 

なぜ・・・・平取町に ”義経” ?

 

 

実は、北海道や平泉以北の東北の各地に、

その土地、その土地、ゆかりの義経伝説が数多くあります。

 

平取もその一つ!!

 

 

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1185年・・・・4月30日、奥州平泉。

 

藤原泰衡の軍勢数百が衣川館にいる義経を襲った。

 

義経と郎党たちは決死の抵抗をしたが、次々と倒れていった・・・・・・。

武蔵坊弁慶も死んだ。

 

義経は覚悟を決めた。

妻と娘を刺殺し自害した。

 

義経の首は黒漆塗りの箱に収められ、美酒に浸された状態で鎌倉に送られた。

 

鎌倉では、頼朝に変わって、和田義盛と梶原景時が首実検をし、

義経の首に相違ないことを確認した。

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“鎌倉殿の十三人”のドラマでは、どのように描かれるかは、わかりませんが、

これが、今、通説となってる『義経の最期』です。

 

 

ということで・・・・・この一冊です!!

 

大正13年に『成吉思汗ハ義経也』と銘打った書物が世の中を騒然とさせました。

 

しかし、当時、歴史学会から厳しい批判にさらされました。

 

時代を更にさかのぼれば、江戸時代中期に、

義経は衣川で死なず蝦夷地に脱出。義経はアイヌの神として崇められつつ、子孫はアイヌ

の棟梁となった、という生存説が当時の世間の関心を、集めてました。

 

その後も、

蝦夷地から北部中国に渡り、清を建国したとか、

モンゴルに渡り成吉思汗になったとか、

さまざまな生存説が生まれてきました。

 

このように義経生存説は、実に息の長い歴史ロマンと言えるでしょう。

 

“蝦夷地における義経伝承”は、今もなお、歴史学者は注目しています。

 

あの金田一博士ですら・・・・

“日高国(平取町)義経神社の由来”と題して正式な論文も発表されてます。

 

そのなかでは・・・・当時、時期を同じくして、平取の地に

移住してきた”和人”を義経と信じ込んだせい・・・・と結論付けてます。

 

 

いずれにせよ・・・・義経伝説はロマンです!!

 

 

 

『判官びいき』という言葉は、

まさに、時代の変革期の敗者の弁そのものの気がしてなりません。

 

 

平取町”義経神社”・・・・・・・

近々・・・バイクでまた行ってきます!!

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。