久々に、中学の歴史の教科書を読んでいると、
変なところで時代が区切られていることに気付く。
例えば・・・・・
平安時代の途中で章が終わり、『古代』から『中世』に入ったり、
江戸時代の”天保の改革”のあたりで章が終わり、『近世』から『近代』に入ったりする。
この矛盾は、『古代』『中世』『近世』『近代』という歴史区分をヨーロッパの歴史を基
準に組み立てているから生じるのだ。
とは言え、これもまた・・・・“良識ある大人の配慮”というものだ。
昨日の道新朝刊だ。
『戦争は人を狂わす』と題して、戦争中に旧日本軍がした狂気の実態について、
読者からの手記に基づき紹介されている・・・・・
で・・・・教科書では、”この時代”に関して、このように説明されている・・・・
日本史の教科書に限らず、教科書というものは、凹凸のない極めて平板な内容に、なって
しまう。すなわち・・・良識ある大人の”配慮”というものがなされてる。
特に、
満州事変 ⇒ 国連脱退 ⇒ 盧溝橋事件 ⇒ 日中戦争突入
この時代の表記については、特に、“良識ある大人の配慮” が施されてる。
日本史の学習は、ややもすると結果論的な単なる知識の積み重ねに陥りがちだ。
しかし・・・・
日本史の学習において最も大切なことは、歴史の内在的理解だと確信している。
我々にありがちなコト・・・・
それは、当時の歴史状況、時代背景を無視して、安易に”いま”の価値基準、倫理観で歴史
をジャッジしてしまう・・・・
私が、”日本史指導者”として、大切にしてることは・・・・
それは、ある時代に生きた”生身の人間たち”がどのような状況の中で、
いかなる情報や認識を持ち、どのような価値観、どのような行動様式をもって、何を目標
に行動してたか?・・・・・・このようなことを状況に即して理解すること。
そういった意味において、昨日の道新の記事は、とても価値ある素晴らしい日本史の教材
になり得るものだ!!
あるトップ高の日本史の先生も、昨日の学校の授業で、
この道新の記事のコピーを配り、授業をされていたと生徒から聞いた・・・・
どうやら、私と同じことを考えられていたようだ・・・・・
本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。