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2023
10/20

あなたの知らない『北海道の歴史』④ 増毛町【中編】 

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もともと北海道は、言わずがもな、

アイヌ民族の居住地で、日本の領土ではありませんでした。

 

1590年、天正十八年、安東氏の『代官』として蝦夷地にあった蠣崎慶広は、

豊臣秀吉から、諸国から集まる商船から「船役」〔船の通行税のようなもの〕を

取り立てることを認められました。

 

この頃、増毛にはアイヌの人たちは定住はしてませんでした。

しかし・・・・ニシンなど海産物がメッチャ獲れる“とんでもない所”ということで、

既にアイヌの人たちの間では有名なスポットでした。

 

アイヌ語で『マシュケ』と呼ばれてたと言います。

“かもめの多いところ”という意味です。

ニシンの大群がこの地に現れ、海一面にカモメが出現することからこう呼んでたと言いま

す。

遠くは、カムイ(今の旭川)から何日もかけて、魚を獲りに来てたといいます・・・・

この『マシュケ』が転じて『増毛』になったそうです。

 

さて・・・・

その後、蠣崎氏は、江戸時代になると姓を『松前』と改め、

北海道道の南端の松前を領地とする一藩主となりました。

 

松前藩では、藩士に対し『場所』と呼ばれる交易地での交易権を知行として与える『場所

知行制』をとってました。

 

つまり・・・・松前藩自体がアイヌとの交易で成り立ってたのです。

そのため、領地を拡大することなく、

幕府も蝦夷地は日本でない、と認識してました。

 

その後・・・・18世紀末、ロシア使節ラクスマンが突然、根室に来航しました。

日本との貿易の打診です。

 

幕府は貿易許可を匂わせて、ラクスマンを帰しました。

幕府は、ロシアの脅威に備えて東蝦夷地を直轄地としました。

数年後、レザノフの艦隊二隻が今度は、長崎に来航しましたが、

やはり、貿易を拒否され、その報復として択捉、樺太が襲撃されました・・・・・

 

幕府は、焦りました・・・・

 

ロシアの恐怖です。

 

津軽藩、秋田藩を中心とする東北の諸藩の藩士を動員してロシアのさらなる攻撃に備えま

した。

1807年(文化4年)には、全蝦夷地を直轄地とし、

松前奉行を置いてその統治に当たらせました。

 

その一方で、

当時から、増毛は豊富な水産資源に恵まれ、中でも鰊漁は群を抜いてました。

そこに目を付けたのが、松前藩士の下国家(あの有名なドラゴンシェフ下国氏の祖先の方

です)です、既にニシンの交易などで莫大な富を気づいてたと言われてます。

 

幕府も 黙ってはいませんでした・・・・・

1751年(宝暦元年)に松前の商人村山伝兵衛(能登国出身)が、函館奉行所の

命により、増毛エリアで交易を始めるべく出張番屋を設けました。

 

 

幕末期・・・・

 

幕府は、ロシアに対する蝦夷地警衛の要所として、

津軽藩の越冬元陣屋、

秋田藩の元陣屋が

増毛の地に置かれました。

 

北方警衛の要所、

そして、商人にとっては、豊富な水産資源に恵まれた”一儲け”できる魅力あるところ。

 

ということで、増毛の地に和人がどんどん定着し始めていきました・・・・・・

 

 

この続きは・・・・・明日の【後編】で・・・・

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。