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2022
9/28

義経伝説と平取町の義経寺を考える【中編】

ブログ

判官贔屓(ほうがんびいき)

弱い立場に置かれ、厳しく、しんどい状況に立たせてる者に対して、

同情を寄せる・・・・

 

 

遠くの昔より、多くの人々に愛され続けてる義経。

 

その想いが『判官贔屓』の語源となり、

歌舞伎の『勧進帳』を始めとする様々な芸術作品にもなりました。

 

そして・・・気づけば・・・数々の義経伝説を全国各地で生み出しました。

 

そもそも、この伝説のルーツは・・・・・

 

江戸時代、あの朱子学者 ”林羅山” が著書(本朝通鑑)の中で、

『義経は衣川で死んではいなかった、蝦夷島へ逃げ延び、そこで、残りの余生を

幸せに過ごした』と記しており、これが火付け役となって義経は北海道に渡った!!

という伝説が広まったとされてます。

 

全国にも義経の名前の付いた名所が数多くあります。

 

北海道にも

函館、松前、江差、寿都、岩内、積丹、平取、新冠、本別等々、

120か所以上あると言われてます。

 

一般的なルートとしては、

平泉➩八戸➩竜飛岬➩北海道木古内➩松前➩江差➩寿都➩岩内 と日本海側を進み

洞爺湖➩支笏湖➩平取➩新冠➩本別・・・・そして、最後は留萌に至ります。

 

そのなかで・・・・道内最大の伝説とされてるのが平取です。

平取町には、なんと『義経資料館』もあります!!

 

でっ・・・そもそも・・・なぜ、北海道なのでしょうか?

 

そこには、明確な理由があります!!

 

徳川幕藩体制は日本列島のほとんどを支配下に組み入れました。

しかし、蝦夷地は例外でした。

 

確かに松前藩は支配下にありましたが、それ以外の蝦夷地は、

まさしく未知の領域でした。

当然ながら情報量も少ない・・・・和人(アイヌ)が独自の文化を育んでいるらしい・・

 

つまり、幕府も松前藩も “蝦夷地北部は異国”  であり、”闇の領域” だったのです・・・

 

義経生存の空想を育てることのできる格好の場所だったのです!!

 

 

実は・・・・あの金田一京助氏が、昭和5年に『日高国義経神社の由来』と題した論文を

発表してます。

 

実際に、事の真相を究明すべく、平取に何度も足を運び・・・・・

一つの結論を導いたのです・・・・平取の義経伝説の真相と義経神社の由来を。

 

論文によると・・・・・

 

続きは、明日のブログということで・・・・

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。