判官贔屓(ほうがんびいき)
弱い立場に置かれ、厳しく、しんどい状況に立たせてる者に対して、
同情を寄せる・・・・
遠くの昔より、多くの人々に愛され続けてる義経。
その想いが『判官贔屓』の語源となり、
歌舞伎の『勧進帳』を始めとする様々な芸術作品にもなりました。
そして・・・気づけば・・・数々の義経伝説を全国各地で生み出しました。
そもそも、この伝説のルーツは・・・・・
江戸時代、あの朱子学者 ”林羅山” が著書(本朝通鑑)の中で、
『義経は衣川で死んではいなかった、蝦夷島へ逃げ延び、そこで、残りの余生を
幸せに過ごした』と記しており、これが火付け役となって義経は北海道に渡った!!
という伝説が広まったとされてます。
全国にも義経の名前の付いた名所が数多くあります。
北海道にも
函館、松前、江差、寿都、岩内、積丹、平取、新冠、本別等々、
120か所以上あると言われてます。
一般的なルートとしては、
平泉➩八戸➩竜飛岬➩北海道木古内➩松前➩江差➩寿都➩岩内 と日本海側を進み
洞爺湖➩支笏湖➩平取➩新冠➩本別・・・・そして、最後は留萌に至ります。
そのなかで・・・・道内最大の伝説とされてるのが平取です。
平取町には、なんと『義経資料館』もあります!!
でっ・・・そもそも・・・なぜ、北海道なのでしょうか?
そこには、明確な理由があります!!
徳川幕藩体制は日本列島のほとんどを支配下に組み入れました。
しかし、蝦夷地は例外でした。
確かに松前藩は支配下にありましたが、それ以外の蝦夷地は、
まさしく未知の領域でした。
当然ながら情報量も少ない・・・・和人(アイヌ)が独自の文化を育んでいるらしい・・
つまり、幕府も松前藩も “蝦夷地北部は異国” であり、”闇の領域” だったのです・・・
義経生存の空想を育てることのできる格好の場所だったのです!!
実は・・・・あの金田一京助氏が、昭和5年に『日高国義経神社の由来』と題した論文を
発表してます。
実際に、事の真相を究明すべく、平取に何度も足を運び・・・・・
一つの結論を導いたのです・・・・平取の義経伝説の真相と義経神社の由来を。
論文によると・・・・・
続きは、明日のブログということで・・・・
本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。