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平取には沙流川を望む雄大な景色があり、古来より”聖地”とされた高丘に

義経神社があります。

日本一の”騎馬武者”として活躍した義経を祀っていることから、

勝負に勝つ!!

己に打ち勝つ!!

ということで、

エネルギーがとてつもなく強いパワースポットとしても有名で、

町内はもとより、道内、道外からの参拝客が後を絶ちません。

 

その一方で、

時代に翻弄され過酷な生活を強いられたアイヌのひとたちの歴史も直視しつつ、

この神社を守り続けたアイヌの人々、そして和人の人々の心に生き続けた義経伝説を

後世に伝えていくことも大切だと思ってます。

『多文化共生』と『多様性尊重』のシンボルに他ならないからです。

 

さて・・・・

『国際化』が進めば進むほど、、日本史の学習もまた重要性を増します。

なぜなら、自国の歴史や文化に対する深い理解と洞察力を抜きにした国際化はありえない

からです。

 

歴史の本質を捉えるには、その時代に生きた”生身”の人間が、

どのような状況の中で、いかなる情報や認識を持ち、

どのような価 値観や行動様式に基づいて、

何を考え、何を目標に行動したのか? を考えることだと確信しています。

 

 

今回・・・4日間にわたり『義経伝説と平取町の義経寺』について、

私なりに、ブログを書かせてもらいました・・・・・

 

私も、近いうちに、ゆっくりと義経神社を見てきたいと思ってます・・・・

 

 

 

北海道には、まだまだ魅力あふれる意外な歴史が存在します!!

 

 

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

我々は、トップ高合格ゴールにしてません!!

 

 

最も、大切なのは・・・・トップ高進学後です。

 

だから・・・・・

毎日・・・音読の報告もらってます。

 

だから・・・・コレを毎日、解いてもらってます!!  これも画像で報告をもらってます。

入試対策と言えばそうなるでしょうが、これを毎日解かせる意図は、

問題と真正面から向き合い、試行錯誤しながら、考え抜く粘り強さを養うためです。

 

 

11月か遅くとも12月には、本格的に青チャート数ⅠA突入です!!

トップ高でロケットスタートをかけ、一気に学年トップに躍り出る、鉄板の手法です。

 

なぜ、トップ高の学年トップクラス層は、

向陵中、付属中、伏見中の生徒たちばかりか?

 

それは、中学時代から、“超優秀な生徒たちの間で揉まれていた” から。

 

 

狭い地域限定の優等生が、

まわりからちやほやされて、自分は出来る!!   という錯覚が、

進学後失速する全ての原因・・・・しかし、今はそれに気づかない。

トップ高進学後、

あっという間に、数学が、まったく訳が分からなくなった時に、

身をもって・・・感じるコト・・・・・

 

 

だから、我々は、そうならないために、

毎日、継続している・・・・トップ高でトップを獲るため!!     ただそれだけ。

 

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

金田一京助氏の『日高国義経神社の由来』によると・・・・

 

アイヌの始祖は”オキクルミ”

 

アイヌ神話によると、国造りの神が人間界を作った際に、

オキクルミは様々な試練を受けた後、人間界に降臨。

 

農業、造船、狩猟の技術、そして神を敬うことの大切さなどを教え、

飢饉を救い、悪鬼どもを退治してアイヌの生活の一切をのもとを開いた英雄とされていま

す。

 

オキクルミ =     義経

 

平取の義経伝説の真相はこうです・・・・

 

アイヌの人たちは、なんと・・”オキクルミ” を ”判官様” と翻訳してたと言います。

 

これには、深い事情を抱えてました。

 

結論から言うと、

 

アイヌではない蝦夷地土着の和人が

『義経 = オキクルミ』という”罠”によって、

アイヌ支配、あるいは同化政策の一環として利用した可能性が

大いにあると指摘してます。

 

数の上からすれば・・・・

土着和人よりもアイヌの方が圧倒的に人口が多いわけです。

 

義経とオキクルミの同一化は・・・・

アイヌよりも精神的に優位に立つうえで都合が良かったのです・・・・

 

土着和人が、アイヌ支配の歴史的根拠として、利用した《罠》が

義経 =     オキクルミ

 

金田一氏は、このように結論付けてました。

 

よく、こう言われます。

歴史とは history・・・・・his story《彼の物語》

では《彼とは?》

それは勝者・・・・・・

 

平取の義経伝説は、

土着和人がアイヌのひとたちより、精神的優位に立つために仕掛けた罠

つまり、

土着和人たちの”ストーリー”だったのでしょう。

 

 

そして,時が経ち江戸時代の末期のこと。

幕府の”北方調査”の命を受けた近藤重蔵が、この地を訪れ、

コタンの酋長と交流を持ち、何か心に惹かれるものがあったのでしょう。

その後、江戸にもどり、有名な仏師に木像を作らせ、翌1799年にこの地に”御神像”として

贈りました。

 

これを受けたコタンの酋長はアイヌにはない風習に戸惑いながらも、重蔵から贈られた御

神像をこの聖地に安置しました・・・・

これが平取義経神社の起源です。

 

【前編】【中編】【後編】の3部作の予定でしたが・・・

この3つに収まり切れませんでした(汗)

 

明日の【完結編】で最後のまとめたいと思います・・・・・

 

 

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

速報です!!

 

 

高1進研模試、総合学年9位!! 

 

 

素晴らしい結果です!!

 

 

 

さて・・・・研修にいらっしゃった先生たちが、皆、一様に驚くのが、

毎朝の早朝スカイプ授業です。

 

世界広し・・・

久米宏 といえども(?)

 

毎日、早朝の5:30~からスカイプ授業をしてるのは、

実力養成会ぐらいでしょう(笑)

 

また・・・・このようなことは、どこの塾もまねのできないことでしょう。

 

 

どこの塾もまねのできないことを、

 

我々は、普通に当たり前にやってます!!

 

 

しかも・・・『やるだけ』では、ありません。

そこに『しっかりとした結果』を実現しています。

 

 

習慣化された行動こそ、最強であることを、

我々は行動をもって示してます。

 

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

判官贔屓(ほうがんびいき)

弱い立場に置かれ、厳しく、しんどい状況に立たせてる者に対して、

同情を寄せる・・・・

 

 

遠くの昔より、多くの人々に愛され続けてる義経。

 

その想いが『判官贔屓』の語源となり、

歌舞伎の『勧進帳』を始めとする様々な芸術作品にもなりました。

 

そして・・・気づけば・・・数々の義経伝説を全国各地で生み出しました。

 

そもそも、この伝説のルーツは・・・・・

 

江戸時代、あの朱子学者 ”林羅山” が著書(本朝通鑑)の中で、

『義経は衣川で死んではいなかった、蝦夷島へ逃げ延び、そこで、残りの余生を

幸せに過ごした』と記しており、これが火付け役となって義経は北海道に渡った!!

という伝説が広まったとされてます。

 

全国にも義経の名前の付いた名所が数多くあります。

 

北海道にも

函館、松前、江差、寿都、岩内、積丹、平取、新冠、本別等々、

120か所以上あると言われてます。

 

一般的なルートとしては、

平泉➩八戸➩竜飛岬➩北海道木古内➩松前➩江差➩寿都➩岩内 と日本海側を進み

洞爺湖➩支笏湖➩平取➩新冠➩本別・・・・そして、最後は留萌に至ります。

 

そのなかで・・・・道内最大の伝説とされてるのが平取です。

平取町には、なんと『義経資料館』もあります!!

 

でっ・・・そもそも・・・なぜ、北海道なのでしょうか?

 

そこには、明確な理由があります!!

 

徳川幕藩体制は日本列島のほとんどを支配下に組み入れました。

しかし、蝦夷地は例外でした。

 

確かに松前藩は支配下にありましたが、それ以外の蝦夷地は、

まさしく未知の領域でした。

当然ながら情報量も少ない・・・・和人(アイヌ)が独自の文化を育んでいるらしい・・

 

つまり、幕府も松前藩も “蝦夷地北部は異国”  であり、”闇の領域” だったのです・・・

 

義経生存の空想を育てることのできる格好の場所だったのです!!

 

 

実は・・・・あの金田一京助氏が、昭和5年に『日高国義経神社の由来』と題した論文を

発表してます。

 

実際に、事の真相を究明すべく、平取に何度も足を運び・・・・・

一つの結論を導いたのです・・・・平取の義経伝説の真相と義経神社の由来を。

 

論文によると・・・・・

 

続きは、明日のブログということで・・・・

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。