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◇下の問題、数Ⅱの微分です、極値を持つための条件

ほとんどの生徒がサクッと解けます。判別式をとればいいわけですね。

極値をもつ ⇔ 判別式>0     で機械的に処理できます!!

本質は、判別式がどうのこうのではありません!!

f ‘(χ)の符号変化です!!

さらに言えば・・・・・・

では、数Ⅲの問題です。上と同じ、極値をもつための条件。【6番】の問題です!!

当然ながら、判別式は使えません!!

数Ⅱでの、極値をもつ ⇔ D>0    の呪縛にかかってる生徒も多いです!!

数Ⅱだろうが数Ⅲだろうが・・・f ‘(χ)の符号変化・・・・本質はここです!!

極値をもつ ⇔ f ‘(χ)符号変化を起こす

      ⇔ y=cosχ と y=−(1/a) のグラフの上下関係が入れ替わる !!

 

 

極値を持つための条件・・・・・それは、f ‘(χ) の符号変化

f ‘(χ)の符号変化・・・・・・・・それは、グラフの上下関係の入れ替わり

本質はここです!!

 

 

今日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

2019
10/12

比叡山と油断大敵

ブログ

  • 実力養成会会員、中2生Y君。

最近、ご家族で、比叡山、延暦寺まで旅行に行かれたとのこと。

 

『先生、”油断大敵”の語源って知ってますか?』

 

『えっ?・・・・・・知らないよ』

 

 

Y君は、大の歴史好き!!

私とY君は、普段から、歴史ネタでよく話が盛り上がってました。

 

さて・・・・

比叡山と油断大敵・・・・・・大いに関係あるんです!!

 

『油断大敵』の”油”は菜種油のことです!!

そして、”断”とは、菜種油を絶やさないこと!!

こういうことなんですって!!

 

 

比叡山延暦寺には、1200年もの間、燃え続ける法灯があるそうです。

菜種油を絶やさぬよう足し続ける・・・・・語源はここにあるそうです!!

 

初めて知りました!!

いゃ~勉強になりました!!

 

興味のある方は、調べてみて下さい!!

 

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

さて、『元禄文化』の2回目です。

いやぁ~、2回で元禄文化、終わりません(泣)

朱子学と陽明学と古学の”さわり”だけで終わっちゃいます・・・・ごめんなさい!!

私の日本史の授業の雰囲気だけでも、感じていただければ・・・・と思います!!

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ところで、『朱子学』ってそもそも、何なの?  ってところから説明しますね。

 

もともと、中世では、禅宗のお坊さん、禅僧ですね、彼らが修行の一環として、

朱子学を学んでたんですよ!!

 

京都の相国寺の『藤原惺窩』って人が、還俗(俗人に戻ること)して、禅宗の朱子学を民間

にも広めていったのさ。

 

 

それで、藤原惺窩が家康の”顧問”みたいな感じになって、惺窩の推薦する林羅山が、

家康のアドバイザーになったのさ。林羅山も元々は、建仁寺の禅僧だったのさ。

 

この羅山の系統を”林家(りんけ)”って呼ぶんだけど、羅山はやがて江戸に行って、その

息子も、孫たちも代々将軍家に仕えるようになっていったわけ。

このあたりは、近世の最大のテーマとなる学問史の出だしのところだから、しっかりと頭

に入れておくこと!!

 

でっ、

京都で朱子学を広めていった藤原惺窩は『近世の儒学の祖』って言われてるからね。

弟子が林羅山、そして松永尺五ね。この三人に始まる学派を『京学派』といいます。

 

その一方で、応仁の乱のとき、京都は荒れ放題、それで、公家や学者さんたちは、地方の

戦国大名を頼って続々と地方へ下って行ったわけだよね。

その中に、南村梅軒って人もいたのさ。土佐だよ。

この南村梅軒に始まるとされる土佐で起こった朱子学の一派、これを南学(海南)派とい

うから、これは大丈夫だね?

弟子に谷時中、そしてその弟子の野中兼山

兼山は土佐藩の家老までやった人、難関大はよく狙われるから!!

それと弟(おとうと)弟子にあたるのが山崎闇斎ね。

 

で、ここで、朱子学の内容につても少し説明しておきましょう。

例えば、『なぜ、歩きスマホはいけないか?』という”問い”を立てるのさ。

朱子学では、『なぜ、いけないか?』という問いに対して、そもそも正しい人のあり方と

は?・・・・・って感じで、グダグダ(?)とこの辺の部分から説明していくのさ・・・

 

これは、中国の南宋時代に登場した『朱熹』っていう学者さんの立てた理論なのさ。

この理論で学んで行こうぜ!!というのが朱子学さ。

『朱熹』が死んだのは1200年、ちょうど頼朝が死んだ翌年でしょ?

それで、まとめると、『なぜ、歩きスマホはいけないか?』という問いに対して、

グダグダと、延々と・・・・理屈をくちゃくちゃ、こねくり回していくって感じなのさ。

だから・・・・空理空論的な傾向になりがちになるわけ。

そこで、理屈はいいから、ダメなものはダメ!!

世の中から”歩きスマホ”をなくすことが、大事でしょ!!って言う考えというか”批判”も出

てくるのさ・・・・・

 

それでってことで、『知行合一』を唱える『陽明学』が出てくるのさ。

『朱子学』は、やれ忠義はこうだとか、礼儀は、やれこうだとか、空理空論でただ理屈ば

かりこねくり回してる・・・・実践をもっと重要視するべきでない?

だから、歩きスマホはいけない という課題を与えられた時、この世から歩きスマホを

くすためにどう行動するか?・・・・・これが陽明学の立場さ。

『知行合一』って知識とは行動を伴って、初めて意味のあるものになる!! 

 

さて・・・この陽明学なんだけど、明の王陽明って人が唱えたものなので、陽明学って

呼ぶわけさ。王陽明は、朱子学を批判して実践を重視することを提唱したのさ。

実は、日本には、朱子学と陽明学は、ほぼ同時に入ってきたのさ。

陽明学を本格的に受け入れたのが、『中江藤樹』という人。色々な逸話のある、なかなか

変わった人、いい意味でだから、それで『近江聖人』って呼ばれてます。

で、藤樹の、一番弟子で、朱子学を批判して弾圧を受けた人が『熊沢蕃山』

蕃山は、岡山藩の池田光政に仕えたことでも有名だね、晩年は下総の古河に幽閉されて

弾圧を受けたもんだから入試にもちょくちょく出るだね。

幕府がドンドン広めたい朱子学を批判したためさ・・・・・・・・・・・・・・・・

 

でっ次に登場するのが『古学』ってやつさ・・・・

ところで、朱子学にしても陽明学にしても、朱熹、王陽明と言う中国の学者さんの説を学

ぶことからスタートするわけさ。

そもそも、儒学の根っこ、ルーツって、孔子・孟子だよね!!

孔子・孟子の後、1000年以上たって出てきた学者さんの唱えた説を学ぶよりも、

いっそのこと、直接、孔子・孟子の書いた本を読んで原点に立ち返らない?・・・・・

これが『古学』さ!!

この『古学』、最初に主流となっていったのが京都堀川に起こった『古義学』

伊藤仁斎、東涯親子さ。

で、山鹿素行聖学、で荻生徂徠古文辞学って感じで

ドンドン派生していくんだよね。

 

いゃ~、もっと色々と書きたいんですが、長くなったのでこの辺にしときます。

 

 

今野の日本史の授業は、いつも、こんな感じです!!

 

 

 

今日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

本文より抜粋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

それではどうして光秀は謀反を起こしたのだろうか。

 

筆者の所論は、「天下人の座を手に入れる成算が十分にあったので決行した」というも

である。

 

本来であれば、謀反が成功する確率はゼロに等しかった。たとえ信長を殺害できたとし

も、織田家最大の軍団を率いる後継者信忠の元に家臣団がすぐ集結する。光秀は与力

武将を含め約三万人を動員できたが、織田軍総懸かりの討伐を受ければひとたまりもな

かった。

したがって、謀反を成功させるのは、信長と信忠の二人を同時に殺すことが不可欠とな

る。しかし、信長は安土城、信忠は岐阜城をそれぞれ本拠としてたので、行動を共にす

る機会は非常に限られていた。

 

中略

 

以上述べてきたように、天正十年六月二日は、

①信長、信忠親子が無防備の状態で揃って京都に滞在してた

②誰からも警戒されずに京都近郊に襲撃部隊を集結できた

③柴田勝家などの重臣がいずれも遠方で活動中のため、すぐには反撃できなかった

という三条件が満たされた稀有な一日だった。

 

この条件のどれか一つ欠けても成功の可能性は非常に小さくなる。

そうなれば、光秀は謀反を決行しなかったであろう。

光秀はこの千載一遇の機会を逃さなかったのである。

 

中略

 

結果的に光秀の企ては、羽柴秀吉によって打ち砕かれ、一族もろとも破滅するに至っ

た。その意味において、光秀は敗者である。

ただし、そうだからと言って、謀反に踏み切った彼の判断を間違いと決めつけるべき

はない。

 

光秀は、保守的で神経質という通俗的なイメージとは程遠く、人生を賭することを辞さ

い大胆さと新時代を切り開く革新性を兼ね備えたベンチャー事業者であり、謀略に長

けた有能な軍事指揮官であった。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

筆者は、本能寺の変にまつわる、謀略説、怨恨説を真っ向から否定し、リアルに

本能寺の変の実相に迫ってます。

また、通説のイメージとは全く異なる光秀の実像にも迫ってます。

 

最近の日本・・・・・

勝者については美化され、敗者についてはすべてが否定される傾向が強いように思えま

す。

しかし、現実は、『完勝』だとか『完敗』というケースは少ないはずです。

5対4のスコアで勝者となったり

6対7のスコアで敗者となるのが、よくある話ではないでしょうか・・・・・・・

 

光秀の場合も・・・・・僅差の敗者だったんだと思えてなりません。

 

 

私は、とかく、歴史にロマンを求めたがるタイプです。

しかし、この本は、ロマンはもとより、推論、憶測など一切排除した、

リアルそのもの!!

ありがちな『~~と考えられる』という表現はせず、すべて『~~である』と断定的に記

述されてます。

『リアルな歴史の面白さ』・・・・・これを堪能させてもらいました。

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

普段の私の日本史の授業を体験してみて下さい!!

 

今日と明日の通信は、『元禄文化』についての講義です!!

 

元禄と言えば・・・・・『平和・繁栄』の時代でしたね?

 

いわゆる世俗的な文化が全面的に開花した時代です!!

まず、『元禄文化』を勉強する前に、しっかりと”時代感覚”を整えていきましょう!!

 

家康、秀忠、家光そして家綱、将軍が親から子へとつながってきたけど、いよいよここで

ついに、直系が絶えるんだね。

そこで、上野の国、舘林藩主だった弟の綱吉が5代将軍に就任。

 

綱吉と言えば、元禄時代。

 

でも、すぐ元禄って年号にはなってませんからね。

最初の頃の年号は、天和(てんな)と言います。

天和の治と言われ、比較的引き締まった政治をやってます。

 

綱吉と言うと“犬公方”って感じで、なんかダら~っとした印象を持ちますが、最初は、

ビシッとしてるんです!!

 

大老は、堀田正俊

貞享暦が作られたり、文治政治を象徴するような色んな政治が行われてたわけですよ。

やがて、側用人の柳沢吉保という人が非常に信頼され、

政治を任されるようになっていく。

そして、綱吉は、仏教や学問にドンドン熱心になっていく!!

まさに、元禄時代です。

時代感覚・・・・・大丈夫ですね?

 

 

元禄文化・・・・上方中心、町人が文化の主体。

担い手といえば、『新興の町人』たちです。

『新興の町人』って具体的には?・・・・・大丈夫ですか?

 

両替商、問屋、流通機構に乗って台頭してきた有力商人たち!!

なんたって、

『もうかってまっか?』

『ぼち、ぼちでんがな』

の世界です。

来世に対する興味より、現世です!!

 

従来からの現世に対する否定的な観念は後退して、現世を肯定する姿勢なんです!!

すると・・・・現実を重視するという部分から合理的な精神というのも生まれてきます!!

儒学や色々な学問が発達したのは、こういった時代背景によるものです。

 

それと・・・・忘れちゃいけませんよ!!

桃山文化以来の”華麗さ”もまだ残ってますからね。

 

さあ・・・・合理的な精神ってことで、学問となるわけですよ。

皆さんにとっては、やっかいなとこですね・・・・・

 

まずは、朱子学!!

家康がとりいれたわけですよ。

これで封建支配を理論づける!!

朱子学の大義名分ですね。

『臣下は主人に対して忠義をつくさなきゃならない』

『礼儀を重んじて上下の秩序をはっきりと形にあらわさなきゃならん』

って教えです。

これって支配者にとっては、メチャクチャ都合がいいわけです。

 

社長が”主人”、社員が”従者”って考えてみようか?

 

社長が言う事は、絶対に従うのさ!!

おまけに、社員は、メチャクチャ礼儀を重んじるのさ!!

 

どんな社長でも、ずっ~と、社長でいられるよね?

 

応仁の乱以降の世の中って、下克上だったよね?

 

実力があれば、下の者が上の者に取って代わるという、あの風潮!!

あの”ギラギラとした下克上のエネルギー”を朱子学の思想で押さえ込むのさ!!

 

それが家康の狙いだった訳さ。

 

さて・・・・・朱子学の系譜、陽明学、古学、古義学については、明日ということで・・

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。