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2023
10/22

厚岸、産地直送サンマ!!

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ミニ焚き火台、ここでも大活躍!!

もう・・・・説明はいりませんね(笑)

 

アツアツ、ほくほく・・・、しかも、油がのって・・・・

 

ご飯・・・何杯でもいけちゃいます。

 

豚丼にしても、焼き鳥にしても、

そしてサンマ。

炭焼きがなぜ、こんなにも美味しいのでしょうか?

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

幕末期に設置された『津軽藩の越冬元陣屋』『秋田藩の元陣屋』

特に『元陣屋』は江戸末期の動乱の中で蝦夷地の”要”として機能してました。

増毛の歴史と文化の象徴として、

平成7年に総合交流促進施設『元陣屋』がその跡地に再構築されてます。

 

明治初頭、増毛町は、ニシン漁で沸きに沸きました!!

佐渡出身の本間泰蔵は、小樽で商売を学び、明治八年、増毛で荒物雑貨の店を

始めました。

ニシン景気の中、仕入れた商品は飛ぶように売れ、泰三は事業を次々と拡大します。

荒物雑貨から、海運業、呉服商、酒造業など次々と成功をおさめ、

“天塩国一の豪商”と呼ばれるまでになりました。

泰三は、各種事業を統合し『丸一本間合名会社』を立ち上げました。

現在でも『國稀酒造』は営業を続けてます。

 

明治中期には・・・・

交通の要所として、港湾、鉄道の整備がすすめられ、

特に鰊で栄えた最盛期には貨物輸送の拠点としてにぎわい、その栄華は、増毛駅周辺の旅

館、店舗、作り酒屋など明治から大正、昭和の建築物を見れば手に取るようにわかりま

す。それらの一部は今も見ることが出来ます・・・・・・当時の繁栄ぶりが伺えます。

 

現在・・・・増毛町は後継者不足や魚価の低迷で厳しい状況にありますが、

町を挙げて、水産技術の普及や改善、生産性の向上に努力してると言います。

 

 

増毛には、栄華の歴史を今に伝える街並みがあります。

悠久のロマンそのものです。

 

まさに・・・古き良き時代を感じさせてくれます・・・・・

 

北海道には、本州にない独特の歴史があります。

 

 

増毛にもまた独特の素晴らしい歴史があります。

 

 

 

以上・・・・・あなたの知らない北海道の歴史、増毛町の巻 でした。

次回は・・・・『三笠市の歴史』を取り上げてみたいと思ってます。

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

ある大手予備校の保護者説明会資料を入手できました。

来年度から『新課程の共通テスト』ということで、その影響が明確に現れてるようです。

 

全ては、今年のマーク模試の実施データに基づくものです。

もちろん、信頼性はかなり高いです。

詳細は、個別に伝えていきます!!

 

この資料によると・・・・・

①北大は、例年以上に難易度が上がる!!

北大を第一志望としてる生徒が、昨年と比べ1.8倍。

特に、東京、埼玉、神奈川、愛知、大阪、兵庫で激増。

北大の道内占有率・・・・さらに低くなりそうです。

道内の受験生の学力は年々上がってます。

しかし・・・超優秀な本州勢がドンドン北大を受験をする、

という悩ましい実情があります。

 

北大志望者の皆さんは しっかりとした『健全な危機感』を持ちましょう。

 

 

②明治理工、青学理工はさらに・・・難易度が上がる!!

ただし・・・・追加合格は、意外にも多いです!!  仮に不合格であっても3月に入って、追加合格の通知が突然届くと言うケースもあります。この予備校の生徒で4500人(全国で)が実際に追加合格だったそうです。

私自身も、実態、全体像はつかめてませんので、適当なこと、無責任なことはかけませんが、明治や立教、早稲田の追加合格の話は生徒経由で何度も聞いたことがあります。

 

ところで、

『せめて・・・GMARCH 以上の大学にいは行きたい』

と生徒や保護者の方たちは言いますが、

共通テスト利用においては、GMARCH は北大よりも格段、難しいです。

 

愚息の話をしましょう。

明治(理工)一般入試で合格しましたが、共通テスト利用は、合格の見込み無し、

ということで、さすがに共通テスト利用では出願してません。

明治の共通テスト利用は、今となれば、早慶受験者の『滑り止め』です。

 

北大総合理系合格者でも、、明治理工一般入試は、ボロボロ落ちてます。

 

 

さらに・・・GMARCH の中でも、特に、明治、立教、青学の3大学は、

難易度は群を抜いてます。

 

10年ひと昔と言いますが、この10年で、勢力図は大きく変わりました。

 

 

全体的には・・・・『超安定志向』とのこと・・・・

 

ある意味、当然と言えば、当然でしょう・・・・・

 

 

その他にも、貴重なデータ、情報を入手してます・・・

個別で伝えていきます。

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

この日は、あえて『レベルC』問題です。

 

いわゆる・・・・解答の方針が立てにくい!!   という問題です。

 

 

わからない!!     ➩ さぁ・・・・どうする?

 

 

こういう経験をたくさん積む!!

 

そうです・・・・問題解決能力を養成するのです。

 

普段から、手取り足取り教えてもらってる生徒

もしくは

分からない問題を質問して、教えてもらい『分かったつもり』になってる生徒は、

こういうケースでは・・・手も足も出ません!!

 

分からない問題を質問して、教えてもらうのは自己満足でしかなく、

大学入試の前では、むしろ逆効果になります。

 

 

大學入試で最も重要なことは・・・・

分からないなら、分からないなりにどう部分点を削り取る答案を書けるか?

 

 

理想は『完答』ですが、ゼロ完でも十分、合格はできるんです!!

 

実績の実力養成会です。

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

もともと北海道は、言わずがもな、

アイヌ民族の居住地で、日本の領土ではありませんでした。

 

1590年、天正十八年、安東氏の『代官』として蝦夷地にあった蠣崎慶広は、

豊臣秀吉から、諸国から集まる商船から「船役」〔船の通行税のようなもの〕を

取り立てることを認められました。

 

この頃、増毛にはアイヌの人たちは定住はしてませんでした。

しかし・・・・ニシンなど海産物がメッチャ獲れる“とんでもない所”ということで、

既にアイヌの人たちの間では有名なスポットでした。

 

アイヌ語で『マシュケ』と呼ばれてたと言います。

“かもめの多いところ”という意味です。

ニシンの大群がこの地に現れ、海一面にカモメが出現することからこう呼んでたと言いま

す。

遠くは、カムイ(今の旭川)から何日もかけて、魚を獲りに来てたといいます・・・・

この『マシュケ』が転じて『増毛』になったそうです。

 

さて・・・・

その後、蠣崎氏は、江戸時代になると姓を『松前』と改め、

北海道道の南端の松前を領地とする一藩主となりました。

 

松前藩では、藩士に対し『場所』と呼ばれる交易地での交易権を知行として与える『場所

知行制』をとってました。

 

つまり・・・・松前藩自体がアイヌとの交易で成り立ってたのです。

そのため、領地を拡大することなく、

幕府も蝦夷地は日本でない、と認識してました。

 

その後・・・・18世紀末、ロシア使節ラクスマンが突然、根室に来航しました。

日本との貿易の打診です。

 

幕府は貿易許可を匂わせて、ラクスマンを帰しました。

幕府は、ロシアの脅威に備えて東蝦夷地を直轄地としました。

数年後、レザノフの艦隊二隻が今度は、長崎に来航しましたが、

やはり、貿易を拒否され、その報復として択捉、樺太が襲撃されました・・・・・

 

幕府は、焦りました・・・・

 

ロシアの恐怖です。

 

津軽藩、秋田藩を中心とする東北の諸藩の藩士を動員してロシアのさらなる攻撃に備えま

した。

1807年(文化4年)には、全蝦夷地を直轄地とし、

松前奉行を置いてその統治に当たらせました。

 

その一方で、

当時から、増毛は豊富な水産資源に恵まれ、中でも鰊漁は群を抜いてました。

そこに目を付けたのが、松前藩士の下国家(あの有名なドラゴンシェフ下国氏の祖先の方

です)です、既にニシンの交易などで莫大な富を気づいてたと言われてます。

 

幕府も 黙ってはいませんでした・・・・・

1751年(宝暦元年)に松前の商人村山伝兵衛(能登国出身)が、函館奉行所の

命により、増毛エリアで交易を始めるべく出張番屋を設けました。

 

 

幕末期・・・・

 

幕府は、ロシアに対する蝦夷地警衛の要所として、

津軽藩の越冬元陣屋、

秋田藩の元陣屋が

増毛の地に置かれました。

 

北方警衛の要所、

そして、商人にとっては、豊富な水産資源に恵まれた”一儲け”できる魅力あるところ。

 

ということで、増毛の地に和人がどんどん定着し始めていきました・・・・・・

 

 

この続きは・・・・・明日の【後編】で・・・・

 

 

本日も、最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。